- オランダ
- Nederland
- 国の標語: Je Maintiendrai
(フランス語: 我、守り続けん) - 国歌: ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ
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- ^ フリースラント州ではフリジア語も公用語。
- ^ 法律上の首都はアムステルダムだが、王宮、国会議事堂、政庁などはデン・ハーグにあり、こちらが事実上の首都となっている。
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ 1999年以前の通貨はギルダー。
- ^ オランダのユーロ硬貨も参照。
オランダ(オランダ語: Nederland [ˈneːdə(r)lɑnt]、[ˈneɪ̯də(r)lɑnt] ( 聞く); 西フリジア語: Nederlân; パピアメント語: Hulanda)は、オランダ王国の構成国の一つ。国土の大半は西ヨーロッパに位置し、カリブ海にも特別自治体の島を有する。憲法上の首都はアムステルダムだが、政治の中心は王宮や国会の所在地であるデン・ハーグ。
カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。
ヨーロッパ北西部に位置し、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクス三国と呼ばれる。カリブ海に海外特別自治体としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。
ヨーロッパの交通、交易の要所。リベラルな政策、気風。人口密度が高い。堤防により囲まれた低地。世界第9位の天然ガス産出量を誇る資源産出国であり、チーズ、チューリップ、風車でも有名。ゴッホやフェルメールなど有名な画家を輩出。
国名は Nederland (ネーデルラント)。俗称の Holland (ホラント)もよく使われる。
公式の英語表記は Netherlands 。Holland は俗称。
日本語の表記はオランダ。漢字による当て字で、和蘭、和蘭陀、阿蘭陀と表記され、蘭と略される。
また、オランダ語由来のネーデルラントと呼ぶこともある。「低地の国」「低地地方」を意味する普通名詞に由来するため、基本的に定冠詞をつける必要がある。通称の Nederland はオランダの欧州における国土を意味するため単数形で、正式名称に使われている der Nederlanden は海外領土を含めた概念のため複数形である。
ゲルマン系言語では、the Netherlands (英語)、die Niederlande (ドイツ語)、ラテン系言語では、les Pays-Bas (フランス語)、los Países Bajos (スペイン語)などである。いずれも複数形であるのは、伝統的に現在のベネルクス三国のある低地地域一帯の領邦群の歴史的総称を受け継いでいるからである(「ネーデルラント」の項も参照)。なお、複数形ではあるものの、英語やスペイン語など言語によっては、しばしば集合名詞あるいは「王国」を略したものとして単数扱いされる。
一方、Holland(ホラント)は、スペインの支配に対して起こした八十年戦争で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)の名に由来し、固有名詞であるため冠詞が付かない。
日本語のオランダは、ホラントのポルトガル語訳である Holanda が、ポルトガル人宣教師によって戦国時代の日本にもたらされたことによる。
詳細は「オランダの歴史」、「オラニエ=ナッサウ家」、および「オランダ君主一覧」を参照
元来、現在のベネルクス地方は神聖ローマ帝国領土の一つで、毛織物産業や海上貿易により栄えていた。
15世紀末からハプスブルク家のスペイン領土として植民地化された。しかし、宗主国スペインによる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地方の宗教は利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めていたため、カトリックを強制する宗主国スペインとの間で1568年にオランダ独立戦争が勃発した。しかし、戦争の長期化により、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争から脱落した。この八十年戦争の結果、1648年のウェストファリア条約で独立を承認された。
ネーデルラント連邦共和国は17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて、黄金時代を迎えた。しかし、イングランドとの3度にわたる英蘭戦争で大きな打撃を受け、18世紀末にフランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。間もなく、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に変えられ、さらにフランスの直轄領として併合された。
ウィーン会議ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。これが現在のオランダ王国の起源である。ただし、ベルギーは1830年にオランダに対して独立戦争を起こし、1839年にはオランダはベルギーの独立を承認した。
ナポレオン戦争後はイギリスが世界覇権を称え、オランダの海上覇権は地に落ちた。オランダは残された東インド植民地(インドネシア、オランダ領東インド)の領域支配を進め、この地において過酷な植民地支配を行った。第一次世界大戦では中立を維持した。
第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずドイツに本国を占領され、オランダ王家はイギリスに亡命した。その後1941年に中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地はまもなく日本軍に占領された。オランダ本土については、1944年9月に連合国軍がマーケット・ガーデン作戦を実施してアイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダムを含めた多くの地域の解放は、1945年春にドイツが降伏してからである。その間、鉄道労働者によるストライキに対する占領軍の報復に遭い、国民への石炭や食料の供給が絶たれた。
戦後に日本軍が撤退した後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦ったが、戦後国力が低下していた上に、これまでの過酷な植民地支配に憤慨した独立勢力を抑えることは出来なかった。国際世論の支持も得られず、アメリカ合衆国や国際連合の圧力もあって独立を承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。しかし現在もカリブ海に海外領土を保有する上、インドネシア政府から長年の植民地支配に対しての謝罪要求が来るものの、これを無視し続けているが、日本に対し2007年11月、オランダ下院は慰安婦問題謝罪要求決議を可決した。
なおベネルクス3国として欧州共同体の創設メンバーとなり、欧州連合に発展させた。
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[編集] オランダとアジア植民地
オランダは早くから世界進出し、アジアとも関わりが深い。オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825-30年におきた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。
厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843-48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。オランダはインドネシアに賠償をするどころか、インドネシアの独立を認めるに際しては、60億ドルの補償金をインドネシアに要求している。
インドネシア側はこうした被支配の歴史に対し、これまでオランダ女王のインドネシア訪問、2000年のインドネシア大統領の訪蘭などで謝罪を要求した。しかし2005年のインドネシア独立記念日にインドネシアを訪問したオランダ外相は、わずかに1945年以降の植民地支配と独立戦争についてしか謝罪していない。
政体は立憲君主制で、国家元首はベアトリクス女王(1980年4月30日即位)。
議会であるスターテン・ヘネラールは二院制で、第二院(下院)150名、第一院(上院)75名から構成され、議院内閣制を採る。
2010年2月20日、キリスト教民主アピール (CDA) 、労働党 (PvdA) とキリスト教同盟 (CU) の3党連立から労働党が離脱したことで第4次バルケネンデ政権が崩壊した。これを受けて同年6月9日に第二院の総選挙が実施され、マルク・ルッテ率いる自由民主国民党 (VVD) が31議席を得て第1党となった。しかしながら複数の政党との間で協議が難航し、連立の枠組みがなかなか定まらなかった。最終的には21議席を得たキリスト教民主アピールと組み、同年10月14日にルッテを首班として、少数与党による中道右派連立政権を発足させることとなった。この連立政権は24議席を持つ極右政党の自由党の閣外協力を受けることになっている[1]。
詳細は「オランダ軍」および「欧州連合の軍事」を参照
オランダ軍は陸海空三軍および国家憲兵隊(オランダ王立保安隊)の4軍種からなる。人員は約61,000名。冷戦期は徴兵制を取っていたが、1996年に廃止された。現在は完全志願制の軍隊になっている。北大西洋条約機構に加盟しており、近年は欧州連合による地域紛争解決のための欧州連合部隊にも加わるなど、集団安全保障体制を構築している。また、アメリカとニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力をもっている[2]。
[編集] 国際関係
[編集] 日本との関係
詳細は「日蘭関係」を参照
オランダは、江戸時代の鎖国下で欧州諸国で唯一外交関係を維持した国である。当時オランダを通じてもたらされた学問・技術は蘭学と呼ばれ、後の開国・明治維新に向けての下地を準備、形成することになった。
第二次世界大戦時、日本はオランダの植民地であった蘭印(現在のインドネシア)を攻略し占領した。このことが、第二次世界大戦後、インドネシア独立の大きな要因となって、オランダは重要な植民地を失い、また戦中の白馬事件などの影響もあって、戦後は反日感情が強かった。戦後オランダ法廷は日本軍BC級戦犯に対し、アメリカ法廷・中国法廷を上回る236人に死刑判決を下した。[3]これは連合国による対日裁判で最多の数となった。オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、その際に賠償請求権も放棄したが、のち賠償請求を続け、1956年には「オランダとの私的請求権解決に関する議定書(日蘭議定書)」において、ジャワで拘留された元捕虜や同国民間人に与えた損害(民間人の私的請求権)について日本から補償(見舞金36億円)を受けた。
詳細は「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照
その後も反日感情は残存し、1971年の昭和天皇オランダ歴訪の際には、在位中の昭和天皇はオランダ人にとって戦争犯罪人と見なされていたため市民から卵や魔法瓶を投げつけられるなどした。またベアトリクス女王が1986年に日本訪問の計画をした際には、議会と世論の反発で中止した。昭和天皇崩御後の1991年10月、女王は歴代オランダ元首として初めて日本を公式訪問。天皇が主催した晩餐会のスピーチでは第二次世界大戦時のインドネシアにおける自国民の犠牲について言及する一方、翌年3月に開業を控えていたハウステンボスにも言及し、蘭日関係の親善を強調した(女王は自らの居所であるハウステンボス宮殿の忠実な再現及び同名の使用を許可)。1990年代より従軍慰安婦問題が世界レベルで議論された際には、オランダも再度 請求を開始、日本国政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した(2001年・償い事業1)。その後2006年にはオランダは皇太子徳仁親王と同妃雅子ら一家の長期静養を受け入れるなど日蘭関係の友好面を見せたが、2007年7月にアメリカ合衆国下院121号決議が採択されると、オーストラリアに続いて、11月20日にオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議が採択。2008年8月、オランダ駐日大使のフィリップ・ヘルは、参議院内集会において「強制があったかどうかということなど問題ではない」と述べ、日本政府が謝罪をするべきだと述べた[4]。
詳細は「慰安婦」を参照
オランダは対日貿易では赤字であり、2005年の貿易額は、日本からオランダへの輸出が1兆5,076億円、オランダから日本への輸入が2,439億円。2004年の直接投資は、日本からオランダが7,764億円、オランダから日本が3,164億円で、いずれもEU加盟国中第1位となっている。
[編集] 地方行政区分
詳細は「オランダの行政区分」を参照
オランダ本土は12の州に分かれており、州はさらに441の基礎自治体(ヘメーンテ)に分かれている。また、カリブ海には海外領土(旧植民地)を持つ。これらはかつてオランダ領アンティルという枠組みであったが、現在は解体された。アルバとキュラソー、およびシント・マールテンは単独の自治領であり、本土と対等な存在としてオランダ王国を構成する。また、ボネール島とシント・ユースタティウス島、およびサバ島は、3島あわせてBES諸島とも呼ばれ、ヘメーンテ相当の自治体として本土に組み込まれている。
BES諸島を除く本土の地方行政区分は以下の通り。
[編集] 主要都市
人口順に主要都市を列挙すると次のようになる。
再生水は何ですか
基礎自治体名 | 所属州 | 人口(2008年) |
---|---|---|
アムステルダム | 北ホラント州 | 755,269 |
ロッテルダム | 南ホラント州 | 582,736 |
デン・ハーグ | 南ホラント州 | 478,948 |
ユトレヒト | ユトレヒト州 | 296,305 |
アイントホーフェン | 北ブラバント州 | 210,300 |
ティルブルフ | 北ブラバント州 | 201,936 |
フローニンゲン | フローニンゲン州 | 184,777 |
アルメレ | フレヴォラント州 | 184,414 |
ブレダ | 北ブラバント州 | 171,132 |
ナイメーヘン | ヘルダーラント州 | 161,177 |
エンスヘーデ | オーフェルアイセル州 | 154,999 |
アペルドールン | ヘルダーラント州 | 154,962 |
オランダはライン川下流の低湿地帯に位置し、国土の多くをポルダーと呼ばれる干拓地が占める。国土の1/4は海面下に位置する。ヨーロッパにおける最高地点はドイツのアーヘンに近い南端のファールス(Vaals)にあるファールス山(Vaalserberg)における322.5m。ドイツ、ベルギーとの三国国境点(Drielandenpunt)に近い公園内に最高地点を示す小さな塔が築かれている。2010年10月10日の憲法改正によってサバ島がオランダの特別自治体となったため、オランダ全域における最高地点はサバ島に存在するシーナリー山(877メートル)である。最低地点はロッテルダム北東の-6.7mである。オランダの国土は海側から海岸沿いの砂丘部、ポルダー、東部の高地である。砂丘部は北海の高潮から国土を守る大切な働きをしている。
詳細は「オランダの河川一覧」、「オランダの運河一覧」、「オランダの湖一覧」、および「オランダの島の一覧」を参照
[編集] 干拓計画
13世紀以来、干拓により平均して一世紀に350平方kmの割合で国土を広げて来た。1927年、国土の中央よりいくぶん海よりに位置するゾイデル海を締め切り大堤防によって海から遮ることを目論んだゾイデル海開発計画が発動された。6年の工事の末、大堤防が完成、以来アイセル湖と呼ばれている。内部には4つの干拓地が設けられ、大阪府の面積に匹敵する1650平方kmの耕地などが産まれた。多くの干拓地が島のように密集して存在することからオランダは『千の島の国』(Het Rijk der duizend eilanden)と呼ばれていた。
[編集] 治水
1953年2月1日の満潮の日に980ヘクトパスカルの低気圧がオランダを覆った。破壊されたダムの長さは延長500kmに及び、1835人の犠牲者、家を破壊されたもの20万人というオランダ史上最大の洪水被害が生じた。オランダ政府は再発を防ぐため、ライン川,マース川,スヘルデ川河口部全域に防潮堤防・水門・可動堰等を設けるデルタ計画を明らかにし、1997年に工事を完遂した。
なお、堤防・水門・堰・水路などの治水施設の運営や干拓地の管理水位の決定は、州や基礎自治体から独立した行政機関である水管理委員会(Waterschappen)によって行われている。
[編集] 気候
オランダの気候は暖流の北大西洋海流の影響を受け、高緯度ながら温暖な西岸海洋性気候 (Cfb) が広がる。季節による降水量の偏りはあまりなく、50mmから80mmの降水が毎月見られる。曇天が基調となる。北海からの風が強く、オランダはこの風を風力として長らく利用してきた。冬季は年によって寒暖の差が激しく、真冬日や氷点下10度以下の寒さになることも珍しくない。
首都アムステルダムの年平均気温は9.7度、平均降水量は798.9mm。1月の平均気温は2.3度、7月は16.5度である。
詳細は「オランダの経済」を参照
オランダ経済は、1980年代以降に政府が取った開放経済政策により国際貿易を中心として発展してきた。最大の産業は金融・流通を中心としたサービス産業であり、全GDPの2/3を占めている。アムステルダムにはユーロネクストの取引所であるアムステルダム証券取引所(AEX)が置かれている。また、ライン川の河口にあるロッテルダム港(ユーロポート)は欧州最大の港である。
事業を手がける場合には、各オプションについて賛否両論を比較検討し、メリットが上回れば、感情論は置いて決断する。こうした決断はオランダに限らず北部欧州のプロテスタント系の国々に見られる合理主義が徹底されている。その中でもオランダは、感情を超えて判断する以外にも禁止事項を避けることで、秩序を保つことに成功している経済大国と言えるだろう。成長の原動力となってきたのは、失業問題など貧富の格差は規制緩和の推進という欧米流の新自由主義路線を貫いてきたからだと言われている。
エネルギー・資源産業では、オランダは天然ガスの大生産地であり輸出国でもある。石油精製産業も重要であり、代表企業としてロイヤル・ダッチ・シェルが国内だけでなく、石油メジャーとして世界中でエネルギー資源開発を行っている。
製造業では、ユニリーバやハイネケンなどに代表される食品・家庭用品産業、フィリップスに代表される電器産業、DSMに代表される化学産業が代表的な産業である。
チューリップや野菜、乳製品で有名な農業分野は、非常に近代化されているが、国内経済に占める規模は現在では数パーセントに過ぎない。
オランダはGDPにおいて世界第16位(2007年 7680億ドル)、欧州第6位である。また、国民1人当りのGDPでは世界第10位(2007年 46260ドル)であり、経済成長率は2007年には約4%、失業率も約4%である。
貿易に関しては、ドイツが輸出入ともに最大の相手国である。ベルギー、フランス、イギリス、アメリカ合衆国などがそれに続いているが、近年は輸入相手国の第二位に中国が入っている。[5]
税制では実効法人税率[6] が周辺諸国(フランスは33%、ドイツは29%)より低い約25.5%に抑えられており、海外からの企業誘致が進んでいる(例えば日本は実効法人税率が約40%のため、多くの企業が研究開発や物流拠点等をオランダに移す動機ともなっている)。
[編集] 経済動向
1970年代に、北海において資源開発が進んだ結果、オランダギルダーは増価し、国内産業は競争力を大きく喪失した。一方で、潤沢な歳入を背景に政府支出は増大した。その後の資源価格低迷で、オランダには壊滅した産業と、莫大な財政赤字が残された(オランダ病)。 1980年代前半には労働需給が急速に悪化。失業率は14%に達した。1983年、ワッセナー合意によりワークシェアリングが普及し始めてからは、失業率は次第に低下し、ほぼ完全雇用状態となった。
物価に関しては、オランダは従来より低物価政策を採っているため、比較的良好である。しかし、統一通貨であるユーロを導入してからは、同じユーロ通貨圏であるフランスや、特にドイツに対しては、若干高物価である。貿易面では資源を大幅に輸入し、高度な工業製品を輸出する形態をとっており、ドイツが最大の貿易相手国である。
[編集] 漁業
ニシン、たら、さばなどの遠洋漁業が昔から盛んであったが、20世紀に入り漁法の近代化が遅れて衰退した。沿岸漁業はムール貝、かき、えびおよび舌平目が中心である。
[編集] 農業
農業の全体の産業に占める割合は小さいものの、依然として重要な産業のひとつとなっている。高度な集約化・機械化により農業の生産性はヨーロッパ連合諸国の中でも高く、農民の生活は総じて豊かである。オランダ農業の発展は、土壌本来の肥沃さよりも創意と労力に負うところが大きく、土地はむしろやせている。
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主な農業地域はゼーラント州からフローニンゲン州に至る海岸地帯のポルダーで、海成重粘土からなる西南部と、フリースラント、フローニンゲン両州海岸部のポルダーでは良質の穀類と根菜類を産する。第二の新しい農業地域は干拓されたアイセル湖のポルダーで、多様な生産が行われている。南部は市場向け園芸農業が主であり、フリースラント州のポルダーはノールトホラント、ゾイトホラント両州に匹敵する畜産地域である。オランダ南部や東部の砂礫地は肥沃とはいえない土壌であるが、土地改良により1950年ごろまで耕地が大きく拡張されてきた。リンブルフ州南部は他の地域とまったく異なり肥沃なローム土壌で、耕地と牧草地が半々になっており、工業の発達に促されて酪農と市場向け園芸が盛んである。粘土地域の保有 面積は平均40ヘクタールであるが、100ヘクタール以上の農場も多い。旧泥炭地帯の経営面積は平均28ヘクタールである。甜菜は砂糖用、飼料用共に特に北部と南西部で作られている。加工農産物には北東部の旧泥炭地帯を中心とするボール紙があり、重要な輸出品となっている。1960年代の市場向け園芸農場面積は約14万ヘクタールで、特にノールトホラント州とゾイトホラント州に多い。またアルクマール北部地域はキャベツ、ホールンとエンクホイゼンのアイでは果物と花の種子が専門である。 また、チューリップをはじめとして花卉の生産がとても盛んである。オランダは世界の花市場の6割強を占めており、中でも世界最大規模の花卉卸売市場であるアールスメール花市場は4割もの占有率がある。 果樹栽培は全国的に盛んであるが、リンブルフ州南部とヘルデルラント州およびユトレヒト州西部の河成粘土地域は牧場か果樹園が一番多い。牧畜は牛乳とその製品が主目的であるが、乳牛の飼育と輸出も多い。最も古い酪農中心地は北ホラント州と南ホラント州およびユトレヒト州西部である。豚には2種あり、国内向けにはオランダ肉用豚が、輸出用にはベーコン、ハム用豚が飼育されている。オランダの代表的なチーズにはゴーダチーズ、エダムチーズがある。
[編集] エネルギー
オランダは天然ガスの世界第9位の産出国であり輸出国でもある。一方、石油や石炭は輸入している。一次エネルギー供給量の83%は国内生産で賄われている[7]。
天然ガスは、EU諸国内で2番目(世界では9番目)の生産量であり、EU内での総生産量の約30%に達している。2005年の推計では50~60兆立方フィートの埋蔵量があると言われており、世界全体の埋蔵量の0.9%を占めている。天然ガスは全生産量の2/3を国内で消費し、残りを輸出している。この輸出量は世界第5位である。天然ガスの殆どはフローニンゲン州で産出され、一部は北海ガス田で産出されている。フローニンゲンのガス田の権益はロイヤル・ダッチ・シェルとエクソン・モービルが保有しており、この権益保有企業と国策企業のGasunieとEBNが採掘を行っている。
石油は北海油田で産出されているが国内需要量には届かないため、輸入が行われている。石炭は需要量のほぼ全量が輸入されている。石油小売のガソリンスタンドは、ロイヤル・ダッチ・シェル、BP、TEXACO、ESSOなどが国内寡占状態である。
電力は主に火力発電と原子力発電により賄われている。年間の総発電量は93.8兆kWh(2007年)であり、そのうちの4%の4.1兆kWhが原子力発電(Borsseleに出力485MWeのPWR型発電所が1基ある。1973年建造)によるものである。火力発電は、主に天然ガスと石炭により行われている。近年、海上に大規模な風力発電施設が建設されるなど、再生可能エネルギーの利用も広く行われるようになってきているが、総発電量に占める割合は2.37%(2007年[8])と小さい。政府の目標としては2010年に再生可能エネルギーが総発電量に占める割合を10%にするという目標も存在している。
電力小売の分野では、1998年から段階的に始まった自由化が2007年で完了した。現在、一般家庭においても電力会社を選択することが出来る。配電電力会社の大手はEssent、Eneco、Nuonなどであり、これらの企業は同時に水道、ガス、スチームの供給も行っているため、一般家庭において自由自在に契約会社を変えるという状況が実際には起こってはいない。
[編集] 工業
オランダの工業化は天然資源の欠乏のために遅れはしたが、19世紀半ば以後は成長を続けた。オランダは民間資本が豊富で、はじめは既存工業の技術向上に力点を置き、乳製品、マーガリン、ジャガイモ澱粉、ボール紙など農産物利用の工業を主としたが、その後電気器具、ラジオ、合成繊維、機械部品の様な、原料をほとんど必要としない工業に資本と研究を注ぐようになった。コークス製造、化学工業から鉄鋼業まで発達するにいたったのである。その一方では、人口の急増が目に見えており、戦後復興のためにはまず第一に工業化を一層進めることが必要になった。
オランダは鉱物資源が乏しいにもかかわらず、20世紀にはいって金属工業を確立した。すず、アルミニウム、亜鉛の精錬も行われている。60年代の半ばには従業員50人以上の造船所の数は約100であったが、近年は船舶の建造より有利な石油化学工場の建設工事に切り替える傾向にある。機械工業の中心地はアイントホーヘンとナイメーヘンである。化学工業は最初は岩塩とコールタールに基礎を置いていたが、現在ではロッテルダム地区、ヘレーン、テルノーゼンを中心とする石油化学工業が最も重要になっている。
代表的な製造業としては製鉄、機械、電気機器、造船、航空機などの金属工業が第一に挙げられ、これについで食品加工業、化学工業があげられる。航空機産業ではフォッカー社が小規模ながら健在で、短中距離用民間航空機フレンドシップ機を製造し、新機種の開発も進めている。 オランダの製造業はこれまでフィリップス、ユニリーバ、AKUレーヨンなどの大会社のほかは、多数の中小企業があるという状態であった。政府の経済政策による新工業化に最も寄与したのはフィリップス社で、約20の都市に新工場を建設した。
食品工業は、近年停滞気味の輸出の牽引力として有力視されている。国際的食品加工企業のユニリーバ、ビールで有名なハイネケン、カクテルに使用されるリキュールやスピリッツの製造メーカーとして知られるボルスやデ・カイパーの本拠地はオランダである。
[編集] 交通
詳細は「オランダの交通」を参照
オランダはヨーロッパの交通の要衝に当たっており、運輸・通信部門は早い時期から近代化されている。欧州連合の海の玄関口ともいわれるユーロポート港が、ライン川の河口(ロッテルダム)にある。ロッテルダム港には石油精製コンビナートがあり、港に運び込まれる原油はコンビナートを通過し、パイプラインで周辺諸国に輸送されている。
主要空港であり物流拠点でもあるスキポール空港は、2005年には91カ国の260都市へ直行便を持っている。また格安航空は南部のアイントホーフェン空港を主な発着拠点としている。
道路は欧州自動車道路の高規格道路によりドイツ、ベルギーなどの隣接国と直結しており、フランス北部からドイツ北部を経由してポーランド方面への主要輸送ルートの一部ともなっている。これら高規格道路(高速道路)の通行料金は現在のところ無料で、最高速度は120km/hである。
鉄道はオランダ鉄道が都市間輸送や貨物輸送を担っており、貨物輸送ではロッテルダムからドイツのルール地方への貨物専用鉄道が2007年に完成している(ドイツ側は依然工事中)。旅客輸送ではフランスのパリから最高時速300km/hの高速列車タリスが、ドイツのフランクフルトから高速列車ICEがアムステルダム中央駅まで直通している。
国内の都市間鉄道網は欧州でも随一の利便性を誇り、アムステルダムやユトレヒトやロッテルダムなどの主要都市間では10~20分毎のパターンダイヤとなっている。都市内や郊外を結んでいるメトロ、トラム、バスはオランダ国内で同一の運賃支払いシステムを採用しており、公営・民営を問わず同じ回数券やICカードが利用できる。
自転車交通も重要な手段の一つで、都市内外を問わず、ほぼ全ての幹線道路に自転車専用レーンが設置されており、自転車と小型のバイクが走行する。自転車道が無い場合も自転車で歩道を走行する事は禁止されている。自転車道の総延長はおよそ15000Kmで、人口と自転車の台数がほぼ等しく、自転車保有率は世界一。
なお、シェンゲン条約により周辺国との国境では国境審査や税関検査などは通常行われていないため、国境通過による時間的ロスは存在しない。
[編集] 通信・放送
詳細は「オランダの通信」を参照
インターネット接続の普及率は欧州諸国内で最高の約80%(2005年12月~2006年1月欧州委員会調査。欧州平均は約40%)に達している。国内殆ど全ての地域でDSLとケーブルインターネットの高速接続が利用でき、高速接続の普及率は31.9%(2006年、OECD調査)とデンマークに続いて2位であり、日本の20.2%より高い水準にある。DSLとケーブルインターネットのシェア割合は60:40であり、FTTHの普及率はそれほど高くなく、国内最大のプロバイダはKPNである。都市部ではWi-Fiによるインターネット接続サービスも行われている。
携帯電話は国内全ての地域でGSM網(GPRS接続含む)が、大都市及びその近郊で3G網が利用できる。日本のNTT docomoとSoftbank Mobileの携帯電話は、オランダ国内でローミング接続を利用することが可能である(GSM網は対応した携帯電話端末のみ)。最大の通信事業者はKPN Mobileであり、そのほかT-Mobile、Vodafoneが国内でサービスを行っている。
地上波テレビ放送は2006年にデジタル化が完了している。高画質放送(HDTV放送)はあまり行われておらず、2008年現在標準画質放送(SDTV放送)がほとんどを占めている。放送方式は欧州共通のDVB-T方式で、日本の独自仕様であるISDB方式とは互換性が無い。また、衛星放送も普及しており、オランダ向けの放送だけでなく、西欧・東欧・旧ソ連・中近東の放送も視聴可能である(日本のNHKや民放を再送信しているJSTVを、衛星放送の一つであるHotBirdを通じて視聴することも出来る)。
住民はゲルマン系のオランダ人が83%で、それ以外が17%である。オランダ人以外としては、トルコ人、モロッコ人、あるいは旧植民地(アンチル諸島、スリナム、インドネシアなど)からの移民などがいる。
国土の大部分が平地であるため、日本よりも広々としているが、人口密度は高い(393人/km²,2004年時点)。人口は東京都のそれに近く、その人口が、関東平野全体に広がったイメージである。
オランダ中央統計局 (CBS Centraal Bureau voor de Statistiek) が1999年に発表した資料[3]によると、オランダの全居住者の平均身長は173.5cmであり、男性平均180cm、女性平均は男性よりも13cm低いとある。
[編集] 言語
言語は公用語がオランダ語である。フリースラント州ではフリジア語も公用語として認められている。識字率は99%である。オランダ国民のほとんどが、英語を話すことができる。また、母国語や英語以外にも、フランス語やドイツ語など数カ国語を話せる人が多い。
オランダは、他国で思想・信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄してきたという自負があるため、何ごとに対しても寛容であることが最大の特徴といえる。とりわけ、日本にとっては、徳川幕府による鎖国政策に際し、キリスト教の布教活動禁止という条件に欧州諸国で唯一寛容に応じ、長崎の出島を介した貿易を通じ、欧州の近代文明を蘭学という形で江戸時代に日本にもたらした史実は、明治維新後の日本が急速な近代化政策に成功するうえで不可欠な恩恵となった。また、ポルトガルが統治したカトリック国として、近年インドネシアからの独立を果たした東ティモールとは異なり、東インド会社によるインドネシア統治に際しても、当該地域における、キリスト教ではなくイスラム教の普及をむしろ領地拡大� ��テコとして利用した程である。現在でも他の欧州諸国に比して実に多くの移民が、その暮し易さのために、合法・非合法を問わず在住している。 合法的に入国を果たしたEU域外からの移民については、オランダ語講習、社会化講習、就職相談をセットにした、いわゆる「市民化講習」の実施を他のヨーロッパ諸国に先駆けて行うなど、一定の移民対策も講じてはいる。
しかし、イスラム系住民の中ではイスラム過激派が力を伸ばし、著名な映画監督テオ・ファン・ゴッホなどの暗殺事件やプロテスタント教会の焼き討ち事件などが頻繁に起こるようになっている。このためイスラム系住民に対する反感が増大して、イスラム移民の排斥を掲げる極右政党自由党が勢力を伸ばし、自由党が閣外協力する現政府もイスラム系移民の規制やイスラム教徒の衣装であるブルカの禁止などの政策を採用するようになった。EU憲法の国民投票での否決にも、このような感情が反映されているとされる。
大麻の所持・使用(「コーヒーショップ」と呼ばれる限られた店でのみ購入が認められている)、積極的安楽死がいくつかの欧州諸国とともに合法化されている。もっとも、大麻も合法というよりは、許容されているといった方が正確であり、現バルケネンデ政権は一部見直しも検討しているとされる。また安楽死についても依然として見直しの議論が続いている。
1991年には刑法が改正され、16歳以上でポルノ出演、性行為が適法とされ、互いの同意があれば12歳以上でも性行為は適法となった[要出典]。国の許可を得れば管理売春も合法である(「飾り窓」と呼ばれる限られた地区でのみ合法的な売春が認められている)[要出典]。売春を国の管理の下で合法化したことで、衛生状態の向上が図られ、性感染症感染率が低下し、また税収増加、売春に従事する女性達の保護の充実などが実現し、国内では評価する声が高い[要出典]。
このようなことから、世界有数の性の解放区として知られているものの、性犯罪をすれば容赦なく逮捕されることには他国となんら変わりがない。またこれらの行為に関わることはそれなりにリスクも大きいので、自由な一方で自己責任で行動しなくてはならない国だとも言える。
性役割は、1970年代は「男は仕事、女は家庭」だったが、その後変化し女性も労働市場に参加するようになっている[9]。なおオランダでは異性同士の場合と同じように同性同士の結婚が認められている。
なお、移民受け入れで有名なオランダだが、オランダ人もまた他国へ移住することが多い。特に言語、文化などで共通点が多く、税金などがオランダに比べて安い隣国ドイツに移住することが多い。同じEUということもあり、ドイツへの移住は気軽に行われている。
[編集] 映画
詳細は「オランダの映画」を参照
[編集] 世界遺産
オランダ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。詳細はオランダの世界遺産を参照。
[編集] 祝祭日
[編集] スポーツ
- 個別のスポーツ競技はオランダのスポーツを、選手についてはオランダ人のスポーツ選手一覧を参照。
[編集] 著名な出身者
「Category:オランダの人物」、「オランダ人の一覧」、および「オランダ人のスポーツ選手一覧」も参照
- 画家
- 哲学者
- 音楽家
- 建築家
- その他
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