2012年4月27日金曜日

パナマについて


パナマの夜を讃う-パナマの瞬くような星空 (小林志郎解説)

 パナマの夜は、まさに絶賛に値する。私どもの住居がパナマ湾を一目に見わたす好位置を占めていることが、幾分かの原因を為しているかも知れないけれど、しかしそれは言うに足りない。パナマの夜そのものが、実に素敵なのである。

 先づ第一に夜空の色だ。日本のように暗く、黒ずんでいない、深く深く何とも云えない美しい濃藍色をしている。そうした空色をバックとして、無数の星が、白く、紅く、黄色く、或いは青く,燦然としてまたたいているのである。

 夕食後、欄に凭って、昔おぼえた星座を追うて、あれは何星座、こちらが何星座などゝ

 その美しい光と神秘な伝説の回想に耽っていると、何時しか夜は更けて、満点の星宿が北斗をめぐって悠然と寝返りを打つ。その瞬間、我もまた大自然の中に、 星の夜空の中に、とろりと溶け込んでしまう。

 忘れがたきもの「パナマの夜」である。


 私どもの隣の建物にはアメリカ人の老夫婦が住んでいる。家の向きが同じだから。眺望も私どもの家と変わらない。

 此の夫婦の夕食は、毎晩きまってバルコニーで行われる。月のある夜は月光を浴びながら静かにフォークを動かしている。闇夜には電気スタンドを置いて、忍びやかな光の下でゆっくり食事を続けている。老夫婦には子供がない、月や、星や、それによって色々と姿態を替えるパナマ湾の風光だけが唯一の慰めらしい。

 彼等こそはパナマの夜を、真に心ゆくばかり味わっている人々であろう。

 クラブ・ウニオンは巴奈馬湾の突端に在って、その広い露台は海上に浮かんでいる。夜になると欄干にボンボリのような淡い電灯が並ぶ。

 夜会服に美しく着飾った紳士淑女が、三々五々テーブルを囲んで食事をとっている。空にはこぼれるように星屑が撒き散らされ、湾を巡って町の灯影が揺らいでいる。

 殊に月夜の晩などは、微妙な音楽に伴れて、踊り狂っている男女の群れを見ることがある。まるで夢幻境を覗いた感じである。

 彼等こそはパナマの夜を真に満喫している人々であろう。

 パナマには夕栄の時間がない。赫々たる太陽が沈めば直ぐ暗くなる、暮れるのを待ちかねて空に星が瞬く。昼にあらずんば即ち夜、甚だ単純にして明瞭である。シャワーを浴びてすっかり汗を流した後、爽やかな夜風に吹かれながら、長椅子に寝ころんで月の出を待つことがある。こんな時は真に王侯の富貴も何のそのである。

 眼下はパナマ湾で、湖水のような静かな水面に幾筋かの燈影が濡れている。市街は湾を囲んでC字型の切れ目が広く開いて太平洋の水平線が一文字に張渡されている。月はお誂え向きに丁度そこから昇るのである。水平線がぼうつと赤らんだかとおもうと、月の頭がポカリと現れる。やがて颯と投げられた一条の光の中に、市街も、丘も、はては背後の山々も、夢より淡く浮かび出るのである。

� �月はスルスルと昇る。見る見る孤円となり、半円となり、切円となり、そして今まさに水際を離れようとする瞬間、月は長味を帯び水は盛り上がって、いかにも互いの接触に未練がありそうに見えたが、次の瞬間、月は決然として水平線を蹴った。団々たる明鏡は、弾みをつけてポンと大空に躍り上がった。

 海面には一条の光の大道が月に向かって引かれ、真っ黒な漁舟が二隻、その光の中へ颯爽として登場して来る。金屏風に描かれた墨絵の名画といったような、豪華な光景である。

 パナマの夜の好さは蚊のいないことにある。日本のように蚊と夏と不可分の状態にある処とは、聊か趣を異にしているのである。だから薄暗い木陰に恋を語っている男女も、夜釣りの竿を握っている人々も、蚊の襲撃に邪魔されることはない。否蚊ばかりではない電灯に集まる不快な蛾も居ないし、スープやビールの中に身投げする不心得な羽虫も居ない。

 居るのは蛍だけである、しかも大きな源氏蛍だ。厭はしい総ての昆虫を外出止めにしておいて、夏の夜をかざるに相応しく可憐な蛍だけを拉し来たったところ、パナマの夜は何処までもよく出来ている。

パナマ及びパナマ運河研究家である小林志郎様に、最近までの長いパナマ滞在経験をとおしての、「あちら・こちら物語」への現代風解釈を戴いたので合わせて、現状との比較を味わっていただきたい。「あちら・こちら物語」は、天野さん38歳の時の処女出版だ。31歳でパナマ永住を決意し、ラテンアメリカで手広くビジネスを展開し始めた頃の意気軒昂な精神と好奇心に満ち溢れた作品だ。その中でも、「パナマの夜を讃う」は、一番初めに出てくる短文だ。よほど天野さんはパナマの夜の素晴らしさに打たれたものと思われる。パナマ市内のはずれの小高い丘クレスタという場所に居を構えていたため、パナマ湾が一望に見渡せたのだ。熱帯の太陽が水平線に沈むと、直ぐに夜のとばりがおりて降るような星空。隣に住むアメリカ人の老夫婦が、月光の中で時間を忘れたような食事を摂っている光景が描かれているが、それは天野さん達の投影だったのかもしれない。「クラブ・ウニオン」の名が出てくる。パナマ人の金持ちクラブで、今でもパイティージャという場所にある。金曜日のドンチャン騒ぎは有名で、この地区のマンションに住む日本人は、寝不足に悩まされ、「金持ちのどら息子」と酷評する羽目になる。天野さんの住むクレスタは、車で15分ほど離れていたので、むしろパナマの夜を満喫する人々として広い気持ちで眺めている。パナマの� ��、蚊がいないのは、パナマ運河建設時代に完全に駆除されたからだ。

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住みよいパナマ 1(小林志郎解説)

これが「瑞穂の国」か

 住みよいパナマを語る前に、先ずもって我が「日本」を振り返らせて貰う。日本人というやつは頭から日本を世界無比の良か国と盲信しているのだから始末がわるい。それも無理は無い、私どもは小学校で『日本は気候温和にして、地味肥沃の国』だと教えられ、それが永く頭にこびりついていて離れなかった。ところが海外を巡り周ること7ヵ年の今日は、あべこべに、日本とは甚だ以って気候の悪い国、地味の疲せた国であると逆信するに至っちまったのである。

 実際、日本くらい気候の変化の激しい処は、世界でもちょっと類がないのである。大袈裟に言えば、日本では一日だって油断も安心も出来たものではない。暑かったり寒かったり急に風が吹いたり、雨が降ったり……。だから日本では晴天にも洋傘を携帯し、雨� �降られないのにレーンコートを着て歩く。そんな具合だから一年を通じての変化に至っては、実に物凄い。

 左なきだに春夏秋冬の慌しい推移のあるところへ、やれ霜だ、それ雹が降った、桑が駄目になった。

 大雪だ、汽車が埋まった。電車は勿論立往生、電話は不通だ。

 洪水だ!何十ケ町村が水浸しになった。

 旱魃だ!雨乞いだ、水喧嘩だ、田植えが出来ない。

 そら二百十日だ、台風だ、家が吹き飛ばされた。

 冷害だ!米が実らない。飢饉だ、餓死だ、一家心中だ等々、気の弱い者は新聞を見て居るだけで眼を回してしまう。

その外に又、気候とは直接関係のないことだけれど、噴火だ、津波だ、地震だ、雷だ、火事だ、と入替り立替りいろんな奴が見舞って来て、暴威を逞しうする。「� �和」などゝ言う生温かい現象は、いったい何処を探したら見出せると云うのだ。

 地味だって左様だろう。国民を総動員して人糞をつくり、魚を締め上げて魚肥を作り、枯草を腐らして堆肥を作り、過燐酸石灰、硫安、石灰窒素、などの化学肥料を造らへて未だ足りず、年々外国から6千万円の肥料を購入して、それを使わないことには瑞穂の国に米が実らないとある。

 今、二、三の国の肥料消費高を統計によって比較して見ると、一町歩当たり日本は33円50銭。アメリカは1円、カナダはタッタ20銭だ。欧州第一の集約農業国と云われるデンマークですら17円弱でやっている。他は推して知るべしである。日本の農業はうんと手数をかけ、うんと肥料をやらねば成立たない。此処に農村疲弊の根本問題が横たわっている。

 とまアこんな点から、私はダンゼン日本と云う国は気候の悪い、地味の痩せた国と決めてしまったのである。

 政府が補助金を出して海外移住を奨励するのも結構な事には相違ないが、子供の間から学校で、例のトヨアシハラノミズホノクニなどを無鉄砲に振回さないで、外国の気候の良いこと、土地の肥沃なことなど、正確に教えていたら、大きくなってきっと自然に海外へ出掛けるようになると思う。

 もう一つ悪い癖は、日本人は自分の国を非常な――或いは世界一の健康地と勘違いしていることである。だから外国へ出掛けることを危ながる。近頃中南米熱の勃興につれて、官吏や実業家が盛んにやって来るが、その誰も彼もが揃いもそろって、富山の売薬行商人ほどにいろいろの薬品を携帯してくる。塩酸キニ� ��ネ(マラリヤの予防薬)などは実際売るほど沢山仕入れて来る。そして諸々方々に持回って見るけれども、結局一度だって使う機会はなく、そのうち邪魔っ気にはなるし、税関でも面倒な手数が掛かる(薬品だって売るほど沢山持って居ちゃうるさいデス)ので、捨ててしまう者が多いのである。

 日本で『パナマ』といえば、マラリヤ・黄熱病などの巣窟で、灼熱地獄みたいな処と考えて居る人が多いが、認識不足も甚だしい。パマナ市の日本人商店で聞いて見たら、 『私方は此処に開店以来7年になりますが、その間、50人からの店員中1人だってマラリヤになぞ罹った者はありません。さあ田舎の方にでも行ったら、多少はマラリヤもありましょうかしら?』と。ましてマラリヤ以外の熱病や流行病など、殆どパナマでは聞いたことがない。パナマばかりでなく南米諸国の医科大学では、流行病――例えば赤痢、コレラ、等々の患者がないため教材に苦しんでいる学校が沢山あるのである。

 そうした教材に一番恵まれているのは、お膝元の日本だ。8種伝染病は言わずもがな、有りと凡ゆる病気が、まるでデパートの商品のように取揃えている怖かない国である。


バコロド市で購入するもの

 パナマの気候は1ケ年平均温度80度(華氏)だから、そんなに暑くはない。日中市街を歩いている人で帽子を被っている人は至って少ない。外出の服装は、メリヤスの肌着にワイシャツ、それにネクタイを結び上衣を用いる。(労働者はシャツだけでも歩いているが)、それでいて汗にグッショリになるような事はない。夜は戸を閉め切ってカーテンを曳き、薄い毛布を掛けて寝る。これがパナマだ。これが熱帯地だ。

 私はパナマに住んで、あの蒸し暑く寝苦しい日本の夏に、ひそかに同情を寄せている一人である。

コロン市の雨

 コロン市の雨は男性的だ。こんな気持の好いものはない。

 エメラルドの様に碧く明るい空に、ポカリと鼠色の雨雲が舞上がったと見る間に、それが魔神のような早さで天空に拡がる。『そら雨だ!』と叫ぶ間もあらせず、ザアーとやって来る。そして降るわ降るわ、まるで全市が滝壺の中へ投げ込まれたようだ。道路は忽ち河と化し、自動車が波を立てて右往左往に泳いで行く。

 物の2、30分も斯うして降っていると、そのうち小降りになる。小降りになったかと思うと水道の栓を止めたようにピタリと止んで、太陽がテカテカと照っている。空を見上げると拭われた様な青空を逃げ遅れた雨雲が、千切れ千切れに走って行く。ペーブされた街路はすでにすっかり乾いて、往来には人がドシドシ歩いている。

 コ� ��ン市の雨量は年に130インチ、パナマ市は70インチであるが、雨の降り具合は両市共、変わりがない。パナマに、一度降る雨はコロンに二度降るだけの相違である。

コロン市があるカリブ海側が、太平洋に比べ二倍の雨量になるのは、カリブ海からの偏西風が山脈に当って大量の雨をもたらすからだ。日本で一番雨量が多い屋久島をはるかに上回る雨が、乾期の4ヵ月を除く8ヶ月間に集中的に降るわけだ。しかし雨がやむと街路がすぐに乾くとあるが、これも運河建設当時、マラリヤ・黄熱病退治のため蚊の生息の可能性をなくそうとした努力の賜物だ。街路設計の中に見事な地下排水システムが導入されたのだ。観察眼の鋭い天野さんが、この排水システムに着目しなかったのは、当時の日本の街づくりのありかたとも関連していたのかもしれない。

肥料は無くも稲は実る

 パナマの田舎に行くと、今でも余りに原始的な農業を営んでいるのに呆れ返ることがある。彼等の米作法は斯うだ。

 先ず付近の山野に火をつけて雑草を焼き払う。パナマには乾燥期というシーズンがあるから、其の頃になると草は枯れてよく燃える。燃え残った根をマチエーテと言う草刈刀(鎌ではないですぞ)で刈取る。これで畑は出来た。日本のように土を砕いたり、小石を取除けたり、畦を作ったりする必要はないのである。

 今度は田植えだ、否畑植だが、それは棒でもって地面に穴をあけて、その跡へ籾を押し込んで、土をかける。それだけの仕事である。

 あとは悠々として遊んで居ればよろしい、籾から芽が出て稲になり、米が実るのは時間の問題である。勿論雑草も延びる。延びても驚くことは無い、パナマの稲は雑草位に負ける様な弱虫でない。これと生存競争をやって立派に実を結ぶのである。

天野さんが見落としていた点が一つある。それはパナマで植えられていた稲は日本のジャポニカ種ではなかった点だ。今日では、パナマでも灌漑施設さえあれば、日本の稲作技術指導により、水田稲作も行われている。しかし、多くの場所では、天野さんが観察したような焼き畑農業が今でも一般的だ。 日本でも夏の雑草は本当に手がかかる。しかし、熱帯パナマの雑草は、とても人間が対処できるしろものではない。畝を作るという発想がないのも雨量が半端でないことを反映している。ジャイカ専門家や青年協力隊員が農業指導をやっているが、長年日本で出来上がった改良技術が必ずしも現地に応用できるとは限らない。異なる自然環境とそれに対応する人間の対応方法が著しく異なっているからだ。うまく灌漑を施して日本の水田稲作栽培が行われているディビサ地区(撮影、2002年8月、小林志郎)

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住みよいパナマ 2(小林志郎解説)

『木に餅が生る』旨い話

 『木に餅が生るような旨い話』と云う譬えは、中南米の熱帯地方ではたいして旨い話にはならない。と言っても矢鱈と切餅が木の枝にぶら下がっている訳じゃないが、彼等にとっては餅以上の「パンの実」が山野に自生しているからである。

 パンの実の大きさは赤ン坊の頭ほどあって、外皮を剥ぐと中に栗の形をした物が沢山入っている。土地の人々はそれを塩煮にして食べる。日本人には初め余り美味しいと感ぜられないようだが、食べ馴れると段々好きになって来る。パンの木は野生で何処にでもある。腹が減ったら一つもいで来れば一食分は充分である。非常に澱粉が豊富で、米・麦と同様に栄養価値も相当ある。パナマではこれを原料として菓子を作っているが中々風味のあるものだ。

 パンと云う名の起こりは� �らないが、焼いてパンの変わりに食べている処もあるから、それから出たものであろう。兎に角『パンの問題だ』なんて騒ぐ必要はない。パンは木に生っとる。

 然しパンがお厭ならヤメ、ユカなどと云う薯も山野にゴロゴロしている。掘り起こす手間さへかければ、分けなく自分の所得となる。これも厭なら――バナナでもパパイヤでも手当たり次第に取って食えばよい。日本のようにバナナが恭しくお遣い物になったり、マンゴやパパイヤが贅沢な果物であったりするお国柄とは、訳が違うのである。

 バナナの蒸焼は私の好物の一つだ。バナナには三種類あってその一つは日本で我々がよく見受けるもの。もう一つは小さな、丁度中指位の長さで皮が薄くて甘味の多いもの、そのまま食べても旨いが吊るして干して置くと� ��いジャムもとれる。最後のものが私の好きな料理用のバナナで、生のままでは渋くて食べられないが、蒸焼にしてバタをつけて食べると、野趣掬すべきものがある。

 料理用のバナナは三種のうちで一番大きくて普通8,9寸から1尺位の長さである。本国から来たてのアメリカの兵隊さんは、安くて大きいこのバナナを買う。そして口一杯に頬張って見るが、渋いものだから変な顔をして唾と共にペッペと吐き出している。

 豆の木もある。これなぞ真実に「木に豆の生る旨い話」と言えよう、豆の莢は鶉豆の実に似ているが、豆は青豌豆そのままの形である。またパナマには熱帯の名果

 マラニヨンが随所にある。マラニヨンは一寸説明がしにくいが、もし落花生を美味しいと思う人だったら、あれの幾層倍か美味しい� ��のだと思ったら間違いない。落花生は地下茎だがマラニヨンは木の枝に生る。落花生は労力をかけて畑に作らねばならないが、マラニヨンは山野に自生している。

 海の幸 未だこの外に天然の果実は沢山あるが、山の幸はこれ位に止めて海の幸を見よう。

 パナマという人口8万の市街の海岸には、牡蠣がうんと居る、蛸もいる、サザエもいる。もし日本だったらとうの昔に取り尽して、影も形もなくしてしまっているだろうが、この町の人はそんな物に見向きもしない。もっとも牡蠣はたまに取手もあるが、一人や二人取った位では何年経っても尽きる憂いはない。潮の差引が20尺にも及ぶので引潮の時には一町も二町も干潟になる、こんな時パナマの市から5マイル離れたサンフランシスコと云う海岸に行くとイナの子 や黒鯛の子が水溜りにピチピチ取り残されている。然し潮干狩に出かける人もない。

 海岸には巨大な流木が沢山打上げられているが、拾い手もいない。

 但しあさりに似た貝が沢山あって、これだけは村の――それも貧乏人の婦女子が時々取っていることがある。

 要するに彼らは山に行っても海に行っても、怠けさえしなければ餓える憂いはないのである。否、少々位は怠けても大丈夫なのだ。そこで彼等は一体に働かない習慣がついて終った。欲も無いことないが、骨を折って迄の欲なら御免蒙ると云う態度である。つまり余りに豊かな天与の富が、彼等をこうさしてしまったのである。

「パンの木」、ヤメ、ユカ、バナナ、グァンドゥーと呼ばれる豆の木、マラニョン等、パナマには自然界に人間の食料がふんだんにある。天野さん好物の料理用のバナナは、パナマでは「プラタノ」と呼ばれている。鉄分を多く含み、栄養価も高く、確かにフライパンで蒸焼にするとほんのり甘く、くせになる。マラニョンは、果実にカシューナッツがついたものだ。果実の部分は、ジュイシーで少し渋みがあるが、パナマ人は腎臓や胃腸の調子を整えてくれるといってよく食べている。天野さんが住んでいた1930年代、パナマ市の人口が8万しかいなかったとは驚いた。今は、高層ビルが乱立する100万近い大都市なのだ。当時はパナマ運河だけが存在する牧歌的な町だったことが想像される。パナマ運河地帯には運河や鉄道従業� �としてのアメリカ人が少なくとも3万人は住んでいた。勿論、これらアメリカ人は、パナマの人口には含められてはいなかった。年がら年中、あくせく豆に働く日本人と比べ、パナマ人が何と怠け者に見えたことか。天野さんは「豊かな天与の富」を怠けの原因の一つとしてつきとめ、カルチャーショックを何ともユーモラスな表現で包み込み、暖かい人間味を感じさせる文章にしている。とても30代の観察眼とは思えない。

珍味「三尺蜥蜴」

 食物の序に蜥蜴の話。いかに天恵豊かなりとは言い条、あまり図に乗るのはドウかとおもうお話である。

あの声で 蜥蜴くうかや山時鳥
 人は見かけによらぬもの

 と言う唄がある、この場合蜥蜴をくうのは時鳥だからいいようなものの、もし窈窕たる美人が『あたし蜥蜴は大好物よ』と仰せられたら如何だろう?心臓の弱いモボなどは眼を回すかもしれん、と言うのは日本の話で、太平洋のこちら側パナマに来て御覧なさい、蜥蜴を食わない美人(なにも美人とは限ったことはないけれども)なんて、一人だってありゃしないのである。

 しかもパナマの蜥蜴はやに大きいのだ、三尺位の奴は珍しくない。土地の人はこれを「イグアナ」と呼んでいるが、市場の傍らにそのピチピチ生きた奴が、足を縛られて、魚を売るように並べて売られているのである、不気味な眼、暗緑色の鱗、どう見てもグロ味百パーセントの代物だ。見ていると主婦さんや女中が事もな� �に尻尾を握って逆さにぶら下げて持って行く。オオあれが夕食の皿の上に載せられるのだ。


離婚のためにカナダを提出する方法

 パナマにはラテン系の色の白い美人(どうも美人として置かないと話がしにくい)が多い。鋏でチョキンと切った様な赤い唇、其の奥に並べられた皓い綺麗な歯、口元だけでもウットリさせられるが、彼の醜悪な蜥蜴が何時もその唇で舐められ、其の歯で噛まれるのだと思うと、幻滅の悲哀に似た感じが、湧かないでもないのである。

お化けトカゲの「イグアナ」がここでは主人公。色白の美人のうっとりするような口元で、この醜悪な生き物が舐められ、白い歯で食いちぎられる光景を天野さんは想像しているが、さすがにご本人もこのグロテスクな生き物を試食されなかったようだ。しかし「イグアナ」は、鳥のささみのように淡白で、まことにうまいのだ。ゴルフ場でキャディーが樹上にこれを発見したら、プレーはもうそっちのけだ。石を投げつけ「イグアナ」が見事地面に落ちたら、目にも止まらぬ早業で、その前腕と足を反対側にへし折り、爪を利用して背中で手錠をかけ固定してしまう。ゴルフバックのサイドポケットに突っ込み、チャックをして終わり。初めの頃は、俺のバッグどうしてくれると腹立たしく思ったが、その心配は無用。姿に似ず 清潔な動物なのだ。プレー終了後、キャディーはチップより価値があるお土産を担いで、意気揚々と家路を急ぐのだ。今宵は「イグアナ雑炊」で一家団欒だ。最近は自然の「イグアナ」が減少したとかで、養殖ものも増えているそうだ。これぞ、環境に優しい高価な蛋白源としての期待が高い。(撮影、02年8月、小林志郎)

運転手簡易生活

パナマ湾に望んだパブロ・アロセメナ街には夜になると2、30台の乗合自動車がズラリと並ぶ。通り全部が自動車の塒になり、自動車全部が又運転手達の塒になるのである。彼等は家と云う厄介なものを持たない、自動車で寝て自動車で働いているのだ。停車するのは海の側だから涼しい風が吹く、景色も好い。蚊も居ない。見ていると友達もやって来る。恋人も這入りこむ。時には月の好い晩などギタを鳴らし乍ら夜更ける迄唄って居たりもする。

 朝になってゴロ寝の夢から醒めたら、歯も磨かず、顔も洗わずに、近くの安食堂でコーヒーを飲みパンを食う。昼と晩は客の都合で行った先きで安価な食事をとる。

 日曜日の午後、知り合いのところにでも行ってシャワーにかかるか、何処かの川で身体を洗えば一週間振り� �汗も垢も綺麗にとれて終う。そして新しい人絹のシャツを着、ネクタイをつけ頭に櫛でも入れれば、天晴、町の色男として通用する。実に呑気な、簡易生活である。

 これと好一対は町の労働者、荷車曳き(中南米の人は物を曳かないで押すから厳密に言えば荷車押しであるが)の生活である。彼等の荷車と云うのは木の浅い箱で、鉄の車が三個着いている、前方に一つ、後方に二つ、そして腕木に依って恰も乳母車を押す様に押して歩く。

 彼等は引越しの荷物とか商品の運搬などに雇われて市内1回15セントを貰う。運の好い日には5回も6回も仕事に有りつけるが、雨の日などは1回有ったり無かったりだ。従って彼等の服装は哀れだ。シャツもズボンも襤褸だ、多くの場合裸足か或いはアツパラガータと云う足袋と草� ��の間の子見たいなものを穿いている。これに従事している者も40を過ぎた社会の敗残者が多く、若くて金回りの好い乗合自動車の運転手とは非常な身分の相違だ。但し似ていることは商売道具がそのまま家である点で……、即ち彼等も夜になれば荷車を倉庫の軒先などに置いてその中に入って寝る、雨が降れば荷物運搬用の雨覆を頭からスポリと被って、蛹の様に潜り込むのである。

 ダイオゼニス。パナマに於いて後ありというべしである。

パナマ人の中下層階級の生活のあり方を代弁しているようで面白い。先ず気候がいいので、寒くて凍えることはない。今でも路上生活者が、新聞紙一枚だけを体にかけて夜を過ごしている光景はざらに見かける。その都度、自分もいつかホームレスになったらパナマに限ると考えたことを覚えている。運転手の場合、車を保有しているだけでも資本装備率が高く、路上生活者とは生活レベルはまるっきり違う。一定収入をもち、日曜には、シャツを変え、ネクタイまでして色男に変身できるのだ。今でもパナマでは、中下層の生活をしていれば、それほど費用がかからないことは確かだ。ダイオゼニスとは、紀元前4世紀のギリシャの乞食哲学者ディオゲネスのことだ。酒樽を家とし物欲を避け無欲に徹しようとしたことで知られ� ��。パナマの貧困層も天野さんの手にかかるとかくの如し。そのおかげか、今でもパナマの極貧階層は人口の4割を占め、ブラジルと同様ラテンの中でも所得格差が大きい国の一つに止まっている。パナマ市内の貧困層の町、チョリジョ地域のカリブ海系の黒人少年、明るい表情がよかった。(撮影、 91年10月、小林志郎)

パナマの乞食

 天恵の厚いパナマにも乞食は居る。矢張り三日すれば止められない類であろう。けれどもパナマの乞食は朗らかだ。陰鬱、悲惨、如何にも人生の苦杯を舐め尽くしたと云うような面影はどこにも見出せない。

 帽子をかむり、ネクタイをつけ、上着を着、靴を穿き、ステッキ迄携えた中年の男。ちょっと見たらそこ等辺りの労働者よりずんと立勝った服装をしていて、これが乞食である。

 彼は街頭に立って道行く人に恵みを乞い、或いは商店街を貰い歩く。そして如何言うかと思うと、『ダメ、ウンリヤート』

 5セント呉れの意味だ。5セントと言えば日本金の17銭だ、中々押しが太い。しかし彼氏も最近は不景気になった、2セント5リンの白銅貨なら喜んで貰っていく。5、6年前迄は5セント以下は少ない� ��云って取らなかった。それでも未だ相当の矜持は失っていないと見えて、1セント銅貨には決して手を出さない。その赤い丸い物は一体銭か、何かって顔をしている。彼は渇しても銅貨の恵みは受けず、と空嘯いているのである。

 女の乞食も一人知って居る。彼女は住宅廻りが専門だ。こざっぱりした服を着て靴を穿いている。もし髪でも白くなかったら哀れを催さしめる何物もない。トントンと扉を叩く、開けて見ると彼女だ。金を呉れと云う。金よりもパンの残りがいいだろうと云うと、パンはいやだ、どうしても金を呉れと言う。勝手にせいと扉を閉めると、さあ雄弁にまくしたてる。

 『けちん棒、悪魔、泥棒。お前等外国人は皆泥棒だ、パナマの金を盗んでいるんだ。我々の貧乏はお前等の故だ、畜生、トットとこ の国から出て失せろ』と来る。彼女は時々酒場で一杯引っかけている。パンなんか貰わない筈だ。

 パナマで乞食の出る日は土曜日と限られている。土曜日以外の日は何処かで働いている。

 日本の様に本業の乞食ではなく一週に一日だけ副業的にやっているのである。

 面白いことには乞食が釣銭を出す。街を綺麗なお嬢さんが通る、乞食は例のウンリヤリートを請求に及ぶ。お嬢さんは細かいのが無いと答える。では釣銭を出すから呉れと云う。

 此処で交渉が成立し25セント銀貨が乞食に渡され、乞食は10セント銀貨2枚を神の名に於いて差し出す。あら勿体なや、白魚の様な美しい指先が汚らわしい其の銀貨を摘み上げて、それを香気漂うハンドバックの中にパチンと納める。毎度見受ける街頭風景である 。

天野さんが住んでいた頃のパナマは、乞食の数が少なかったようだ。先ず、乞食は副業で、土曜と日曜にしか乞食業はやらなかったとしている。それにプライドの高い女乞食の言動にも注目したい。「お前ら外国人は皆泥棒だ、パナマの金を盗んでいるんだ」というセリフ。まさか、クレスタに住む天野さんの家にまでこの女乞食が訪問したとは思えないので、又聞きの話を引用したものと思われる。多数のアメリカ人が運河地帯に我が物顔で住んでおり、パナマ人の底流にあった反米感情が何かの拍子に女乞食のセリフの中にまで入り込んだものと解釈すれば、乞食の発言にも歴史的意味を加味できるというものだ。パナマ運河委員会本部に翻る星条旗(右)とパナマ国旗(左)。 1999年12月31日以降、星条旗はなくなりアメリカの支配が終わった。(撮影、1991年10月、小林志郎)

祝祭日の多いパナマ

 勤めするなら パナマへござれ 年の半分休日でござる。(まさかそれ程でもないがネ)

 学生やサラリーマンに取って何が嬉しいと言って、日曜と祭日が続いた時ほど嬉しいものは無かろう。反対に日曜と祭日がかち合ったと来たら、まことに無念残念、悲憤やる方なしであろう。

 そういう点でも、パナマの為政者は至極物分りがよい。祭日が日曜とかち合う場合には、断然月曜日を祭日の代わりに休ませる。どうせ無限にある日数だ、一日を日曜と祭日に使い分けるなんて、ケチな真似はせんでよいという腹らしい。

 しかし気前の好さは、それだけに止まらない、外国の祭日までも法律をもって休日と決めてあるのである。フランスの国民休日(バスチーユ牢獄解放記念日)は休みだ、コロンビヤがスペインか� ��独立した記念日もお休みである。アメリカの独立祭は休みだ。

 日本でも日満支親善のため、満州国や支那の祭日をお休みにするという情義のある法律は出ないものかしら。

 パナマも未だ日本の祭日をお休みとする程度には行っていないが、11月3日即ち我が明治節は、丁度パナマの独立祭に当たっているので、在留日本人は恰も自分の祭日のような気がして、朗らかに、うれしいのである。

 処で、日本の四大節だが、国民全部が業を休むということは殆ど無いのではないか?

 国旗こそ戸毎に掲げるけれど、大抵の商店では平常通り商売をしている、休みは官公衙、学校、銀行会社等に限られている。それには種々と事情もあろうけれど、一年の中に4日間位は国をあげて休む日があって――いや有った方が� ��いのではないか。そこへ行くと海外に居る同胞は、どんな貧しい生活をして居る者でも、天長節には朝から業を休んで、御真影を拝みにゆく。此の習慣だけは本国へ逆輸入したいものだとおもう。


どのようにアイルランド大使館で一族の聖域へ

パナマのコロンビアからの分離・独立記念日11月3日は学生のパレードで盛り上がる。(撮影、91年11月3日、小林志郎)  パナマがフランスやアメリカそしてコロンビアの祝祭日までを自国の休日にしていることに触れている。フランスとの関係では、フランス人レセップスがスエズ運河を完成させた後、パナマにも運河を作ろうと8年間近くも悪戦苦闘して失敗したことと関連性があったのかも知れない。アメリカの「独立祭」は、アメリカの影響力が強かったことを反映したものだろう。コロンビアとの関係は、少し複雑だ。パナマは1821年にスペインから独立してコロンビアの一つの県となった。その後1903年、今度はアメリカが運河をパナマに建設するために、パナマをコロンビアから分離・独立させた。どちらが主導権を握って独立を実現させたのか今でも議論が絶えないところだが。いずれにしても、パナマの独立記念日は、今でも二回あ� �、学生は鼓笛隊でパレードに参加し、国民意識を高揚する。そして11月にはこれらの祝祭日が重なり、日本のゴールデンウイークとなる。勿論、現在、フランスやアメリカの休日までは休みにはなってはいない。

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パナマ運河を中心に (小林志郎解説)

路上に引く黄色の一線

 国境線!そこには銃に実弾を籠め、いかめしく武装した監視兵が、胡散なものは蟻一匹も通すまじきと、鵜の目鷹の目で見張っているであろう物々しい光景が想像される。いや満ソ国境などと来るとそれ以上で、絶えずドンドン大砲をぶツ放したり、空から爆弾を撒き合ったりしている。それを殆ど常識かのように習慣づけられていた私どもは、パナマ共和国と運河地帯の国境が、あまりにも自由に開放されてあるのに、むしろ一驚を喫した位である。運河と並行に片側50マイル宛、両側では100マイルの国境線には、兵隊はおろか巡査一人立っていないのである。

 殊に共和国の首府パナマ市と、運河地帯の首府バルボア市の如く密接した処などは、電車、自動車、人間が朝から晩まで引ツきりなしに往復しているため、人 々をして全く「国境」の観念を失わしめてしまった。

 然らば国境線なるものはないかといえば、あることはあるのである。一条の道路の中央に黄色いペンキで幅3インチの線が引かれている。それが国境線だ。ぼんやり歩いていると、右の足と左の足が別々の国土を踏んでいることなどざらである。

 しかし、いくら無関心に両国の市民が国境を越えあっていても、いざという場合には此の3インチの黄色い線がものをいう。

 例えばパナマの巡査が悪漢を追跡ける、まさに襟首に手が届こうとした瞬間、悪漢は国境線を飛越したとする。もう絶対安全だ。彼は悠然として振り返って、巡査に向かってアカンベイをしようが、舌を出そうが捕まる心配はない、――彼はアメリカの法律下に在るのだから。

 つい昨年迄 、運河地帯にはアメリカ本国同様禁酒令が敷かれていた。そこで運河の兵隊さんなど、ちょっと国境線を跨いでは盛んにパナマへ飲みに行ったものだ。意地の汚いのになると、さんざん酒場で飲んで未だ足りないで、国境線のところ迄来て、ポケットウイスキーを喇叭にしてゴクリゴクリとやり、最後の一滴まで綺麗に嘗めつくしてから国境線をまたぐ足取りもまんさんとして、ふらりふらり米領へ帰って行くのであった。

 曽ってこんな疑問を持った事があった。黄線の一方の側、すなわち運河地帯に立ってパナマの領土に小便をしたら、其の男はどっちの国の法律を持って罰せられるのだろうか。又罰金は小便を発射した国の収入になるだろうか?

 それとも発射された国の収入になるのだろうか?

 で、或る時冗談半� ��にアメリカの巡査にたずねて見たところ、彼氏は

『そんなケースは無いから、知らん』と、アッサリ答えられた。

 成程こりゃア私の頭がわるかった、両国民ともに、道路に小便するような国民ではなかたわい。

日本海軍の「パナマ運河爆砕作戦」のためダリエン地方で15年もスパイ活動をしていたと報じられた"大地役治"さんの顔写真(パナマの新聞ラ・プレンサ紙 93年5月11日号) パナマ運河地帯とパナマ共和国の間には、何らかの厳然とした国境があるのではないかという仮定で書かれている。1903年の運河条約でアメリカはパナマ運河地帯をあたかも主権国家と同様に利用する権利を与えられてはいるが、それは一種の「コンセッション」であり、別の国家の存在を意味したものではなかった。従って、黄色の線は正確には国境線ではなく、単なる境界線に過ぎない。禁酒法から逃れて米兵がパナマの町に繰り出したという話は面白いエピソードだ。黄色い線を跨いで小便したら罰金がどちらの国に帰属するのか、という例え話も天野さんの茶目っ気ぶりを表わしている。 天野さんは時間を見つけては、パナマ運河地帯にあったアメリカの図書館でパナマ運河関連や、後のインカ帝国の研究に結びつく文� ��を読み漁っていた。その成果の一部は、真珠湾攻撃の直後、パナマで拘束され、日本に強制送還された後の昭和18年に書いた「パナマ及びパナマ運河」(朝日新聞刊行)の中にも凝縮されている。天野さんは、パナマ運河が見渡せるクレスタに住んでいたこと、漁船で運河を偵察していたのではないか、などを理由に、米軍から最も重要なスパイ容疑者としての取扱を受けた。また、天野さんが日本に送還された後に書いた「わが囚われの記」に登場する大地役治(おおち・やくじ)なる人物は、米軍資料では、日本海軍のパナマ運河爆砕作戦に関連し、パナマの僻地ダリエン地方で15年間もスパイ活動をしていたことになっている。驚くべきは、戦後50年経った現在でも、パナマの新聞に天野さんや大地役治さんのスパイ関連記事が掲載� �れるという現実だ。さらに2003年には、パナマ運河の防衛担当官(アメリカ人)が、天野スパイ説を裏付けるような情報を整理して出版している。天野さんのシンパの私としても、事実関係を整理し、誤った情報は修正しておきたいと考えているところだ。(小林志郎)

なお"大地役治"氏に関する情報をお持ちの方はご一報頂きたく。 天野博物館友の会 e-mail:

アメリカの兵営

 パナマの運河地帯にアメリカの兵営がある。綺麗な文化住宅風の建物が並んでいるのがそれだ。門もなければ、垣もない。陸軍歩兵第何連隊と書いた厳めしい表札もない。四方開ツ放しで頗る風通しが好い。いや風ばかりでなく人でも車でも自由に通っている。兵営の中に坦々たる道路があって、誰でも勝手にドライブして構わないのである。

 中にはいって行くと野砲の並んでいる建物も見える。軍用飛行機も見える。練兵場は広々とした芝生で、こっちの方に兵隊さんが教練をしているかと思うと、向こうでは非番の将校がゴルフをやって居る。実に長閑な光景である。

 それでも流石に司令部の前には、哨舎があって、其処には歩哨が立つ事になっている、然しなっている許りで立っては居ない。歩哨は少し離れたマ� �ゴの樹影にそれこそ涼しい顔で立っている。

 曾て私はコロン市外のアメリカ陸軍飛行場を見物に行った事がある。受付の前で自動車を止めて、内部を見学させて貰いたい旨を申し入れると『OK』とばかりに二つ返事だ。そして下士官が一人ついて場内を隈なく案内してくれた。『これが偵察機』『これが戦闘機』『これが爆撃機』『これが此の間ついた許利の重爆撃機で現在我々の国で一番有力な機です』などと詳細、懇切な説明ぶりである。

 試みにそれの速度、爆弾の積載量などを聞いて見たところ、

 『新しい飛行機だから私もよく判からない。あそこにいる専属将校に訊ねてあげよう』と云って態々聞きに行って教えて呉れた。それから此のハンドルをこうやると爆弾が落ちるとか、機関銃の操作はこんな風に 改良されたとか、此の点と此の点が新しいデザインだとか、そんな事を言っても好いのかと此方で心配する位のことまで平気で話す。

 彼等は私を日本人とも何とも思っているんじゃない。何処の者かとも聞きもしない。別れる時、下手な英語で感謝の意を表したらニッコリ笑って挙手の礼をしていた。

 アメリカ人には学ぶべき大国民の襟度がある。

太平洋側の運河入口(写真上方の二つの島の手前が運河航路)にあるハワード空軍基地跡、滑走路、格納庫、軍用バラックが立ち並ぶ。(撮影、02年、ARI提供) 天野さんが訪ねた陸軍飛行場は、カリブ海側にあるシェルマン基地か、コロン・フリーゾーンの近くの通称「フランス・フィールド」のいずれかだと思われる。米軍はここでもジャングルを切り開き見事な空港を整備している。1999年12月31日に、運河が全面的にパナマに返還され、同時に両洋に存在した9ヶ所の米軍基地とそこにあった全ての建物もパナマに返還された。総面積15万ヘクタール、建物1万5千件と言われる返還地や施設の管理や利用は、「両洋間地域庁」(ARI)が担当している。住宅の多くは、パナマ人に貸与ないし譲渡された。一部は観光ホテルや公共施設、学校等に転換された。太平洋側の運河入口近くにある2千ヘクタール近いハワード空軍基地跡には立派な滑走路(2.6キロ)も残されている。最近、内外の投資 家を誘致するため、この空軍跡地は「経済特別区」に指定された。飛行場機能を活用したフリーゾーン地域として再活用が期待されている。

アメリカの監獄

 バルボアの町から運河に沿って16、17マイル、丁度ドライブに持って来いの処にアメリカの監獄がある。或る日私は友人を誘って此処の見学に出掛けた。

 初め自動車の運転手が我々をその監獄に導き入れた時、私は座席から叫んだ。

『君、間違っていやしないかい、こんな監獄なんてあるものか。誰かの別荘だろう』

 すると、運転手は、私が冗談を云っているのだと思って、

 『シー、セニョール。此処は1セントなしで暮らせる別荘です。』

 と答えたが、監獄を別荘と間違えた者は私許りではない。其の後何度か日本人を案内して行ったが、皆やはり私の様な質問を発していた。


 場所は眺望絶佳の地で、リオ・チャーグレと云う大河がゆったりと流れるあたりから、対岸の山々にかけて絵の様な景色である。監獄は又一方が直接運河に面しているため、毎日幾十隻かの船が通る、観光客を乗せた華やかな巨船、勇ましい軍艦、黙りこくった貨物船、スマートな帆船、それが思い思いの国籍の旗をあげて目の前を過ぎて行く。然し私が別荘と間違えたのは景色や眺めの故ではなかった。其の開けっ放しな設備のためであった。

 監獄には塀がなかった。門はあるが門柱だけで扉もなかった。門番も居ないし、番小屋もない。自動車は誰に断る必要もなく堂々と這入って行った。何とその建物の瀟洒なことよ。何とその芝生の綺麗なことよ。

 よく見ると可愛い� �が遊んでいる。犬も鶏も居る。

 向こうから血色のいい労働者風の男が4、5人、煙草をくわえ乍やって来た。運転手はこれが囚人だと注意して呉れたので、つかまえて色々話してみた。そして最後に、

 『何故逃げないのだ、わけないじゃないか。』

 と、そそのかすように聞いて見たところ、

『逃げて捕まったら、刑が増すから損だよ』

 と、答えたが、そうじゃあるまい。こんな結構なところを誰が出て行くものか。

 重罪人の居る所は、流石にそれでも金網が張ってあったが、その内側は矢張り青々とした芝生で、其処に寝転んでポータブルの蓄音機を聞いている先生が重罪人だそうである。

看守たちは何処にいるのか、遂にそれらしい人間は一人も出会わなかった。

 帰りの自動車の中� ��、友人が運転手に話しかけた。

 『誰でも悪い事をすれば彼処へ入れて貰えるかしら』

 私はそれを横から取って、

 『大分気に入ったと見えるね』

 『そうさ、都会で齷齪しているよりかも余程好いよ』

 と、友人が存外真面目であったのには驚いた。

国鳥に指定されている鷲の一種「アギラ・アルピア」(英語でHarpy Eagle) 天野さんが見学した監獄は、パナマ運河に面していて、大河リオ・チャグレスの畔にあったとすれば、ガンボアという場所の対岸にあったところだ。この辺は、週末パナマ市内から車で一時間のドライブ・コースなので、返還後は、周辺にパナマ市民の憩いのためのレストランやホテルもできた。天野さんは書いていないが、この付近は熱帯ジャングルが見事に保護されている国立公園でもある。ドライブの途中、ホエザル(まるでライオンのような声でなく)を直ぐ頭上の樹の上に見かける。色とりどりの蝶が幻想的に舞っている。800種の鳥の観察ができるということで、バードウオッチャーのメッカでもある。鳥類研究者でもある常陸宮が最近パナマを訪問した時もこの周辺で観察された。近くの熱帯植物園には、パナマの国鳥「アギ� ��・アルピア」が3メートル近い翼を広げて飛び回っている。大河リオ・チャグレスを眺めながら食事ができるレストランの下には、無数の熱帯ワニが泳ぎまわっている。運命のいたずらとでも言おうか、この監獄を見学後5~6年目に、日本軍の真珠湾攻撃を境に、天野さん達は、パナマの監獄に強制収容されることになった。天国のようなこの監獄とは程遠いパナマの劣悪な監獄を味わうことになったのだが。

大西洋は太平洋よりも日本に近い

 先入主と云うやつは不思議なもので、日本人はおそらく誰でも大西洋は太平洋より遠いと思っているし、時間が余計掛かれば、距離もそれに比例して遠くなるものと決めてしまっている。その好い例がパナマである。

 先ず日本から来る船は太平洋岸のバルボア港につく。それから7時間乃至8時間かかって50マイルのパナマ運河を通過して、大西洋岸のクリストーバル港に出るのである。

 そこで誰も先に着いたバルボア港が、後につくクリストーバルより日本に近いものと断定してしまう。ところが実際はまるで反対なのだ。クリストーバルの方が日本に近いのである。

 若しバルボアとクリストーバルに大砲を一門づつ据え付けて、同時に弾を日本の横浜に向けて発射したとする。無論そんなに遠くへ飛ぶ大砲� ��んて今日の処まだ無いけれど、その弾が日本に届くものと仮定し、そして弾の速度が同じであったとすれば、クリストーバルから射った弾が先に横浜へ到着することになる。論より証拠、地図をみれば分かる。

 バルボア   北緯  8度57分

          西経 79度33分

クリストーバル 北緯  9度22分

          西経 79度54分

 経度だけでもクリストーバルの方が20分程日本に近い。と云うのはパナマ運河のところで、太平洋がうんと大西洋に向けて突き出し、大西洋が又太平洋の方にぐっと入り込んでいる。従って西から東へ抜け様とする船は、知らず知らずの間に東から西に向かって、―即ち出張り過ぎた太平洋から、入り込み過ぎた大西洋の方に引き返すこと になる。つまりパナマ運河は、日本から出て行く方向に切られていないで、日本に引き返す方向に切られているからである。

 パナマ市では朝日が大西洋から昇らず、太平洋の方角から昇るのである。

お株を奪われたアグルハス岬

 序にもう一ヶ所、皆が勘違いしている処がある。それはアフリカの最南端を喜望峰とする説で、これは全然嘘である。事実アフリカの最南端はアグルハスという岬で南緯34度47分、喜望峰はそれよりずっと北西によって34度28分の位置、即ち20分も北にあるのである。

 では何故そんな間違いを生じたかといえば、一つは地形の関係、一つは歴史の関係であろう。

 船でケープタウンから南下すると3時間程で喜望峰に達する。岬は実に印象的で恰も長い剣が鋭く海中に突出しているかたちである。そして此処からサイモンズ・ベイが深く入り込んで、アグルハスの方が大陸から切り離された島の如くに見える。だから初めて大西洋から来た者、誰しも此の岬をもって大陸の最南端と思うに無理は無い。そこで1� �48年に来たバートロミュー・デアスはこれに「嵐の岬」と命名し、其の後9年たってやって来たバスコ・ダ・ガマは「希望の岬」と改めて、不朽の名を世界地理に残したのである。

 彼等はサイモンズ・ベイをインド洋の入口と思って勇躍船を乗り入れたところが、それが湾だと判ると、更に南東してアグルハスを回った。アグルハスは一杯に開いた鈍角形で、少しの奇もなく、何時の間にか過ぎて終う岬である。勿論彼等といえども何等の感興を起こさず、感銘もなく過ぎ去ってしまったに相違ない。兎に角アグルハス岬は厳としてアフリカの最南端に位置しながら、格好が悪いのと、歴史の背景がないばっかりに、喜望峰にお株を奪われているのである。

太平洋側の運河入口(写真上方の二つの島の手前が運河航路)にあるハワード空軍基地跡、滑走路、格納庫、軍用バラックが立ち並ぶ。(撮影、02年、ARI提供) パナマ運河が南北に走るのではなく、ほとんど東西に走っているという地理上の特色をこれほど巧みに表現した人は他に見たことがない。太平洋側の港バルボアとカリブ海側の港クリストバルを北緯と西経の数字で表現しているあたり、いかにも造船技術者としての天野さんの真骨頂と言える。喜望峰ついての薀蓄も並みではない。大航海時代の探検家ディアスやバスコ・ダ・ガマ達が見落としたと見られるアグルハス岬のことまで、現地の地理状況を踏まえて書き残している。天野さんが30歳の時、初めて中南米に向かった博多丸は、シンガポール経由、アフリカ喜望峰周りで南米ウルグァイに向かった。この時の現地観察をベースに、恐らくパナマの図書館で見つけた英語やスペイン語文献を引っ張り出して歴史的事実を確認 されたのであろうか

汐の干満、地図の色を変ゆ

 地図でご承知の如く、南北アメリカ大陸は、パナマ運河のところに至って、思い切りひどくくびれている。 太平洋岸から大西洋岸迄たった50マイルしかない。スエズ運河の102マイルを掘鑿したことに比べたら、ものの数かは・・・・と考えたのが例のフェルジナンド・フォン・レセップス其の人であった。ところが彼はパナマ運河では見事に失敗した。

 失敗の原因は種々あった。疫病に悩んだ事や、金銭に纏わる一大醜聞を捲起こした事や、工事の組織が悪かった事や、機材が不備だった事など主なるものであったが、其のうちでも海水の干満を計算に入れずに、水平運河を掘ろうとしたことが其の最大の原因とされている。

 と云うのは偶然にも、運河の太平洋岸バルボアは汐の� ��満の差が20フィート.1もあって、中南米中第一の干満の差の激しいところ、又大西洋岸(クリストーバル)は、干満の差、僅かに0.4フィートで、これ又中南米中で一番干満の差の少ないところ、丁度極端と極端が50マイルの運河を中に置いて鉢合わせをしていたからである。

 で、若しレセップスの思うとおりの水平運河が出来上がったとしたら、毎日或る時間には太平洋の水が奔流の如く大西洋に流れ込み、或る時間には反対に大西洋から滝の様に水が押し込んで来たであろう。従って巨船の航行なんかは到底出来なかったに相違ない。

 レセップス失敗の後を受けたアメリカ政府は設計を変更し、閘門式運河として完成したその結果、運河通過の船舶は真ん中のガツン湖にはいると、海面から80フィート乃至8� �フィートも高い水面を航行しているのである。

 潮汐の干満――20フィートの差――、これが為にレセップスは悶死し、フランスの勢力が駆逐され、北米が取って代わり、コロンビアが領土を失い、パナマ共和国が生まれた。考えて見ると、世の中ってやつは妙なところに意外な係合のあるものである。

 世界で一番潮の干満の激しい処も新大陸にある。其処はカナダのノバ・スコッタとニュー・ブランスウィックの間にあるファンデー湾であって、其の差愕く勿れ66フィートと云う。潮の引いた時は数マイルの彼方迄陸地と化する。だから満潮の時に海岸の土地を買い、干潮の時に一坪幾らで売れば随分儲かる――見たいな結構な話である。尚一寸お断りしておくが、バルボア及びクリストーバルに於ける汐の干満は19� ��5年3月7日――即ち1年中で一番差の大きい時の記録で、普通バルボアの汐の干満は約16フィートとなっている。



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